気がつけば禁煙 3ヶ月半 697
やればできるものである。禁煙するのももう少し難しいものだと思っていたが、厳しかったのは最初の1週間、あとは、どんどん気にならなくなっていく。時たま、無性に「吸いたい」という気持ちが沸き上がってくるのだが、「じゃ吸うか」という気持ちは全く起きない。目の前にタバコが山ほどあっても吸わないだろう。もらいタバコをしようという気も起きない。
やはり、禁煙のポイントは「決別」なのだろう。中途半端に減らすとか、1週間に1本だけとか、一ヶ月我慢できたから1本ぐらいご褒美に・・・。こういったことが今までの努力を無にするのだろう。確かに、一本目はまずい、まずいから大丈夫だろうと2本目に手を出す。それが麻薬たる所以である。1本目のまずさが、「癖にならない自信」に勘違いされるのだろう。
やめた人間にしてみれば、吸っている人間は(当時の自分を含め)惨めである。無駄に金を使い、無駄に(灰皿のあるところまで)歩かされて、寒い思いや冷たい思い(灰皿は外)をしながら自分の健康を損なうことに一生懸命である。まさに百害あって一利なし。
それでも吸いたいんだよ。という気持ちは分からないでもない。俺もそうだったし・・・。ただそれはマヤカシなのだ。吸えば吸いたいという気持ちが抑えられるのではない。吸っても吸いたいのだから、吸わなくても吸いたいのだ、実は一緒のことなのだ。
例えるならば、オーム真理教の信者が麻原を信じてお経を唱えるのと一緒のことである。今自分のやっていることは間違っていると分かっているのだ。だけど、心の拠り所としてタバコを吸いたいのと同じで、お経を唱えたい気持ちが抑えられなくて、唱えてしまう。
やめたいとかやめたほうがいいとかいいながら実のところやめようなんて口だけでそこに逃げこんでしまう。その気持に勝てないのなら、逃げ出すすべはない。逃げ出すには「決別」なのだ。
たばこは吸っても、「美味しいという感覚は存在しない」という事実
吸っても吸わなくても、吸いたいのだから我慢したほうが得という事実
我慢出来ない!!!と言う気持ちもあるが、実は簡単にガマンできる、
我慢出来ないのではなく我慢したくないだけのこと。
それでもってやってみればたいしたことはなかったりする。
おしっこを我慢する事を考えれば、よっぽど楽である。
タバコを吸いたいと思っている自分を、真理教にとどまりたいと願っている信者とダブらせて考えると、なんとも惨めなものでやめたいという気持ちが強くなった。時々意志が折れてしまいそうな時はそれを思い浮かべていた。
電子タバコは2日しか使わなかったが、きっかけとなってくれた。とりあえずパイポは大いに役に立ってくれた。ありがとうである。
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